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シヴクマール・シャルマ『アンタルドゥワニ』 全訳 (中盤)
2016 - 08/22 [Mon] - 20:05
(白黒の写真。ムンバイの街の風景)
思い出が蘇ってきます。
1960年6月1日、ポケットには500ルピー、手にはサントゥールを抱え、私はムンバイに着きました。ムンバイ、(この喧騒ときたら)どこにもジャンムのような風景は見当たりません。見知らぬ人々、見知らぬ街角。まるで(私は)漆黒の中に飛び込んだ人のような有様でした。突然辿り着いたこの街。どうしよう。私の(持っている)サントゥールを知っている人は誰もいない。私は(その時、この街では)たった2人の人を知っていました。
私は2人の人を知っていました。音楽監督のバサント・デサイ氏と、オーガナイザーで「スール・スリンガール・サムサード」を主催する、ブリジ・ナーラーヤナ氏。ブリジ・ナーラーヤナ氏からは、コンサートは毎日は企画できないですよ、年に何回あるかどうか、と言われました。バサント・デサイ氏の所に行って相談しました。すると「あなたは、ミュージック・ダイレクション(音楽監督)をするのが良いですよ。なぜフィルムの中で演奏したいと思うんですか?」と言うのです。
ひとつ、容易に得ることのできた仕事がありました。それは、HMVレコードとの契約で、責任者の ジー・エヌ・ジョーシさんの所に会いに行くと「ちょうどあなたを探していたんですよ。あなたの演奏を録音したいんです。」と言われました。映画『ジャナク・ジャナク・パェル・バジェ』のバックグラウンド・ミュージックを演奏した時、映画のバックグラウンド・ミュージックだけを集めたレコードが出版されたんです。あの当時は普通は、バックグラウンド・ミュージックをレコードとしてリリースすることはなかったんですが、なぜか分かりません、映画監督のシャンタラムさんが私の演奏を気に入ってくださったのか、そのレコードの中では、私のソロ・パートも録音されたのです。ジョーシさんはそのレコードを聴いたのでしょう、そしてレコードを出したいと思ったのでしょう。このような経緯で、私の最初のレコード、EPレコードがリリースされました。その中で、私は、ラーガ・ティラクカモードと、ラーガ・キルワニを演奏したと思います。
(01415 EPレコード ジャケット)
シヴクマール・シャルマ演奏 ラーガ・キルワニ
あの頃、ジャヤデーヴァ氏が、『ハム・ドーノン』という映画の撮影をしていました。デーヴァナンダ・サーハブをヒーローにしたものです。歌は録音が終わり、バックグラウンド・ミュージックの録音が進行していました。そこに、ジャヤデーヴァ氏はサントゥールを起用してくれたのです。
(01445~01526 映画『ハム・ドーノン』。サントゥールによる心理模写)
??? 映画の中の台詞
□□ 01526~01603 映画産業に出入りする様になった頃
その頃から、私はあるものを感じる様になりました。それは『女神の力』です。最高位にあり、私を導いて下さっているのです。時に私に困難が降りかかると、例えば、夕食の為のお金に事欠くと、なぜだか、どうにか、あり得ない偶然からお金を得ることがありました。
その当時、ジャヤデーヴ氏はバルマン(サチン・デーヴァ・バルマン氏)氏のアシスタントもしていました。バルマン氏と出会うと、パンチャム氏(アール・ディー・バルマン氏の別名)にも会い、だんだんと映画産業とコンタクトができて、あちこち行ったり来たりして、演奏する様になりました。
□□ 01603~01714 ヒンディ映画界で 01
(映画音楽、レコードのジャケット:Kaajal, Tere Ghar ke Samne など)
サントゥールを演奏した映画音楽は、ヒットに継ぐヒットを重ね、ラジオからだろうが、パーンのお店だろうが、街角のどこに行ってもその歌が聴こえて来たものです。人々はだんだんサントゥールの音を認め始めたのです。
ある日、パンチャム氏が、私に無理難題を言ってしつこく迫りました。「シヴさん、映画の歌で、タブラを叩いてくれないか。」 私はタブラをたたくのは止めていました。彼はおじさんにねだったりして、私は、映画『ガイド』の中の歌では、仕方なくタブラをたたきました。
(01647~01714 映画『ガイド』 シヴジーがタブラをたたいたシーン。)
□□ 01714~01828 結婚
映画産業で地位を得て仕事をこなし始めると、収入も多くなり、賃貸マンションを探し始めました。バンドラ地区にマンションを購入すると、父をジャンムから呼ぼうという勇気が湧きました。
父はムンバイに来て、私の所にしばらく滞在しました。父は、自分の息子が、自分で望んでいた仕事をしているのを見て、ちょっと満足したようで、私のコンサートにも出席したりしました。そして、息子を結婚させようと決め、ジャンムに戻って相手を探し、私を呼びました。私は、マノラマと結婚し、彼女はムンバイにやって来ました。
(01757 シヴジーと妻マノラマ女史)
彼女にとっては、それまでの人生とは全く違う世界で生活が始まりました。(本来なら旦那さんは朝、)仕事に出かけるはずなのに、私は、クルターとパジャマ(インドの伝統服)を着て、家に居つづけています。時に、サントゥールを弾いているかと思えば、バルコニーでぼっと立っていたりします。彼女は自分がいったいどんな所に来てしまったのか、困惑してしまいました。私は、1週間も仕事に行かないことがあり、仕事に行ったかと思えば、朝まで帰ってこなかったりしました。その後、この(体験したことのない)生活スタイルを受け入れ適応していった、妻マノラマを、私は、本当に偉いと思っています。
□□ 01828~02007 ヒンディ映画界で 02
(Mere Hamdam Mere Dost など、たくさんのレコードのジャケット)
映画音楽は、インドに生きる人々の人生に大きく貢献しています。音楽監督、マダン・モーハン氏、ローシャン氏、カヤム・サーハブ、ナーヤル・サーハブ、ノーシャド・サーハブ、ラクシュミー・カント・ピヤレ・ラール氏、みなさんそれぞれが、(音楽作りに)自分のやり方があり、レベルがありました。あの頃が、映画音楽の黄金時代だったと思います。その黄金期に私も関わっておりました。
(01909 歌)
映画界には、様々な音楽監督がおりました。それらの人達と私は仕事をしていました。たいていの場合、「ここはこういうシーンでこういう歌だから、あなたの演奏をこのくらいカットしてください」と言われ、何度も何度も再録音するはめになり、とても苛立ち、不機嫌になりました。私はいったいここで何をしているんだ、自分の(与えられた)サントゥールという楽器のためにもっとすることがあるはずだと、自問する事もしばしばでした。(仕事先では)気分を害しながらも、ケースを開けて楽器を取り出して待っていると、夜中の12時、1時になったりします。だったら、この場の雰囲気から意識だけは抜け出して、このサントゥールのために何をしようか、何が不足して、どう直したら良いのか、どこを改良すべきか、音色・音質を磨くにはどうすればよいか、コンサートで演奏する前に、自分自身が満足できるところまでどう実験するか、これらのことに頭を常に働かせていました。
□□ 02004~02612 サントゥールの改良
when time stood still (時が停滞している時・・・)
Raga Kausi Kanhra
サントゥールは大昔「シャタ・タントラ・ヴィーナ(百弦琴)」と呼ばれていました。たくさんの弦が張られてありますね。
昔のカシミール地方のサントゥールには、全部で100弦ありました。この小さなブリッジ(弦を支える駒)ひとつづつに、4本づつ弦が張ってあり、25駒あったので、合計100弦でした。100本も弦があったにもかかわらず、音程は、わずかに1オクターブ分程しかなかったんです。カシミール・サントゥールでは、右側に鋼鉄製(スティール)の弦が張られ、左側には真鍮(黄銅)製の弦が張られていました。(弦の種類が違い、音色が違っていて)その結果、同じ音程を何ヶ所でも使っていたんです。で、現在のラーガの音楽を演奏するのに欠かせない、半音階がありませんでした。
(02043 カシミールのサントゥール 写真)
私は、両サイドとも、スティール弦を張ることにしました。こちら側(右側)を全音階でチューニングします。「レ」のフラット(半音下)を反対側にチューニングします。全音を右側、フラットやシャープを左側にチューニングすると、その結果、全ての音を演奏することが可能になります。
(02140 半音階づつ(クロマティック)演奏してみましょう。)
これで(中心となるオクターブの)全ての音を演奏することが可能になりました。この下のオクターブ(マンドラ・サプタク)は、弦を2本にしました。それ以外は、3本づつ弦を張っています。下のオクターブ(マンドラ・サプタク)は(音が大きいので)弦を3本張る必要はないんです、2本で充分な音が得られます。高音域では、最高域のオクターブ(アティ・タール・サプタク)の「サ」は、ここに張ってあります。
これで、どんなラーガの音も、サントゥールから得ることができます。今、ラーガ・カマージを演奏します。次に、ラーガ・ピールーを演奏するとすると「ガ」はフラット音ですね。次に、ラーガ・トーリーを演奏することもできます。
これで、全てのラーガを演奏することが可能になりました。ラーガ・マーラーを演奏するなら、中心のラーガあり、そこから、様々なラーガを展開することができます。
そしてここで、私が、もうひと工夫したことがあります。中心となるラーガの音階を、右側に合わせるんです。そうすると、弦を擦る(スライド:ガシート)ことによって、アーラープの中で、「ミーンド(ミール)」を演奏することができます。
(02328 ガシート奏法の実例)
インド古典音楽の楽器には「チカリ」というたいへん重要な要素があります。中央の「サ」がここだとすると、1オクターブ上の「サ」はここですね。(カシミール・サントゥールには「チカリ」がありませんでしたので)私は「チカリ」を、この場所に定めました。そして、弦が4本ありますから、その特性を生かして、(4本のうち)2本を「サ」に、1本を「(下の)ガ」に、1本を「(下の)パ」に、ラーガにしたがって調弦します。一度の打弦で4本の弦が一度にハーモニー(ヨーロッパ音楽で言う「コード」)を奏でます。
最も苦心したのは、サントゥールはスタッカート音(断音)の楽器なので、このカラム(木製の
打弦バチ)で弦を叩くことはできます。もし、ある音に留まって継続的に出したい場合、
「ガー・マパマー・ガー・レサー・ニ・パー・ニー・ガマ・ガー」(02457)
歌ったように、この楽器で演奏したいですね。この奏法を、私のテクニックで「ミーンド」と呼んでいます。
「サー二・ダーパ・マーー・---・マーダ・パーー・パーガ・レーレ#・ガーー」(02519)
ライト・ミュージックの場合は、
「カルナー・パレー・モヘー・テーレー・ビナー・サンワリヤー」(02535)
この奏法を確立した後、私のスタイルの中で、技法として「サントゥールが歌いだした」と言えるでしょう。
□□ 02612~02932 海外公演
1968年、私は初めて、海外公演に出かけました。Pt.ラヴィシャンカル・ジーが「フェスティバル・オフ・インディア」というプログラムをアメリカで開催しました。ラヴィシャンカル氏の他、アリ・アクバル・カーン氏、ウスタード・アララッカ氏、ラクシュミー・シャンカル氏も参加されました。ロサンジェルスでは、サントゥールのワークショップもしました。アメリカやカナダで人々はサントゥールの音を聴き、多くの賞賛をいただきました。
特筆すべきは、シカゴで、ウスタード・アララッカ氏が私と一緒に演奏されました。私はラーガ・シャンカラを演奏しました。音楽ホールは満席で、演奏が終わっても拍手は鳴り止まず「ワンス・モーア」コールが続きました。控室に戻って、アララッカ氏に「今日のプログラムは大成功でしたね。」と言うと、「もちろん、成功するに決まってるさ、今日の舞台はジャンム出身2人組みだろが・・・。」あの時の(アララッカ氏の軽妙さを)今でも覚えています。お互いどれだけ愛情を持って演奏にのぞんだことか。
(02726~2740 シヴジーの演奏)
ラーガ
1969年、たいへん意義深い音楽祭が、イランのシーラーズの街で開催されました。サントゥールに似ている楽器と演奏者を、世界中から集めたのです。イランにも「サントゥール」があり、弦は72本です。100本ないんです。中国では「ヤンチン」と呼ばれ、50本前後の弦があります。ギリシアでは「サントゥーリー」と呼ばれる楽器があり、イラクにもあります。アメリカでは「ハンマー・ダルシマー」という楽器があり100本に少し満たない数の弦があります。ドイツには「ハック・ブレット」があり、弦は100本以上あります。ハンガリーからは「シンバロン」がやってきました。世界中から集まった奏者が、プログラムの中で演奏し、その後、演奏者が集まって討論会もありました。私はインド音楽のラーガやターラについて話しをしました。それぞれの国の人はそれぞれの音楽について語りました。お互いの楽器を弾いてみることもしました。特に私の演奏技法である「ミーンド・ガシート奏法」には、各国の演奏家はびっくり仰天したようです。サントゥールは「カラム(ストライカー:打弦バチ)」で弦をたたいて出る「スタッカート音」の楽器ですが、(シヴジーの奏法で、音を持続させることができるとは)誰も考えた事がなかったのです。世界中の高名な演奏家から称賛の言葉をいただいたのは、私にとって非常に刺激的で大きな励ましになりました。
□□ 02932~03105 「シヴ・ハリ」の誕生
・Pt.ハリプラサード・チャウラシアのお話
スェーデンのストックフォルムで私たちのコンサートがあった時、非常に成功しました。そして録音しないかという話になりました。
私たちはそれ以前にも、アルバムを出したことがあります。HMVから「コール・オフ・ザ・バレー」というタイトルでリリースされました。もう40年くらい昔のことだと思います。あのアルバムは世界中でヒットして、私たちの名前が知られる様になりました。あのアルバムのおかげで、私もシヴジーも人々に名前を認められる様になりましたし、(世界の人々に)インド古典音楽界にもアーティストがいるという認知をもらいました。それほど有名になったんです。
スェーデンで録音している時、プロデューサーが「パンディット・シヴ・クマール・シャルマー、パンディット・ハリ・プラサード・チャウラシアー、では名前が長すぎるね、ジャケット全部名前だらけになっちゃうな。」と言うのです。で、私は言ってることをすぐに理解しました。と、2人の頭だけの名前にしようと。彼の両親は彼の姿を見て「シヴァ(神)」と名づけたでしょう、ヒマラヤ山中でいつも練習に励んでいましたからね。私の両親も、私の名前「ハリ(ヴィシュヌ神の化身であるクリシュナ神)」を、私がいつも、心の中ではいつもブリンダーバンに住んでいますからね、そう名付けたんですよ。(こうして、「シヴ・ハリ」というコンビ名が誕生したんです)
(03038 Call of the Valley より)
□□ 03105~03217 西欧ポップ界との交流
1974年、とても大きな音楽祭がアメリカでありました。再び、Pt.ラヴィシャンカル氏が、今までにはない発想でプログラムを組みました。その中で、インド古典音楽界から、ラヴィシャンカル氏、ハリプラサード・チャウラシア氏、ウスタード・スルターンカーン氏、ウスタード・アララッカ・カーン氏、それに私が参加し、ポップ界からは、ビートルズのジョージ・ハリスン氏、キーボード・プレーヤーのビリ・プリストン氏、有名なフルート・プレーヤーのトム・スコット氏が参加し、両者が共同して創造された音楽のなかで、サントゥールは、新しい次元、新しい展開を獲得しました。あのコンサートは録音もされ、幾つかのコンポジションは、ジョージ・ハリスンのアルバム「ダーク・ホース」のなかで、「Pt.ラヴィシャンカル氏とその友人達」として残っています。
(03207 「ダーク・ホース」から)
□□ 03217~03605 サントゥール 楽器としての地位の確立
1970年代、私は数多くのドゥエット(ジュガルバンディ)を演奏しました。特に、高名なバイオリン奏者ヴィー・ジー・ジョーグ氏、フルート奏者ハリプラサード・チャウラシア氏、ギター奏者ブリジ・ブーシャン・カブラ氏と多くの演奏をしました。
しかし、ある一部の人達、特にインドラジオ局の音楽監督さん達が、ちょっと馬鹿にした発言をしたんです(今でも、いったい誰が言ったのか、想像するんですが)。「サントゥールはね、良いんだけどね、もし他のメインの楽器と一緒に演奏すればね、聴くに耐えうるんだけどね。けど、独奏楽器としては、1時間半の時間、もてあましちゃうよね。例えば全国放送のプログラムなんかではね。・・・」
それを聴いて私は友人達と相談し、「私はこれから、1人で戦います。数年間は、ジュガルバンディはしません。」と宣言しました。いろいろな人の忠告や協議を受けた後、私は単独で行動することが正しいと確信しました。一般の人々がサントゥールという楽器を単独で聴いて楽しんでもらえるにはどうすればいいかを、私の目標に定めました。(サントゥールが自立した楽器となる)時期が熟してきたんです。人々は(そんな私の単独演奏を)聴いて、称讃しました。
(03323~03605 第54回 2006年 サワイ・ガンダルヴァ音楽祭
ラーガ
タブラ
タンプーラ
□□ 03605~04256 タブラとの相性
タブラの伴奏は、サントゥール音楽にとって非常に、特別に意味のある要素であることを強調したいと思います。サントゥール音楽には、複雑に込み入ったリズム技法(ラエカリ)があり、力量が試されるのです。私は個人的にも、ラエカリに没入するのが大好きで、音の要素とリズムの要素、両方のバランスを保ちながらも、音の要素を犠牲にすることなく、可能な限り複雑に交錯した「ラエカリ」に挑戦しようと、いつも思っています。そのためには、特に能力のあるタブラ奏者の伴奏が必要なのです。幸運なことに、私は、様々な(流派の)タブラ奏者に伴奏していただく機会を得ました。当時(の最高の奏者である)、Pt.アノケラール・ミシュラ氏、Pt.キシャン・マハラージ氏、Pt.シャムタ・プラサード氏、ウスタード・アララッカカーン氏、ウスタード・カラマトゥッラカーン氏、皆さんと私は競演したのです。その次の世代のタブラ奏者では、例えば、ザキール・フサイン氏、アニンド・チャタルジー氏、クマール・ボース氏、ラティ・ファヤマットカーン氏、故シャファ・アヤマットカーン氏と一緒に、何度も何度も、インド中、世界中で演奏しました。お互いに申し分のない了解があり、伴奏者として素晴らしい関係を持っています。
(03636 ヴォーカリストのタブラ伴奏をするシヴジー。昔の録音風景のスナップ写真。なんと、ヴォーカル、タブラ、サーランギ、タンプーラ合わせて1個のマイクが使われていたようです。)
(03649 若かりし頃のシヴジー。タブラはアノケラールミシュラ氏)
ザキール・フサイン氏とは、個人的にも、ウスタード・アララッカ・カーン氏はジャンム出身でしたので家族的な付き合いでもありますし、お互いに人間として、たいへん深く理解しあっていて、愛情を持って付き合っています。音楽もその延長線上にあります。
(03751~03938 ザキール・フサインとの演奏)
ラーガ
タンプーラ
その結果、観衆、特に海外で私たちの演奏を聴いた観衆から、いったいどうやってお互い理解しあうのか、楽譜もなく、目の前に音符があるのでなく、計画なく即興で演奏が進んでいる、タブラ奏者は、しかし、全てを見通して伴奏している、まるで、2つの異なる楽器なのに、ひとつの生命体であるかのようであるのを聴いて、吃驚するという反応をもらいます。
(03958~04105 ザキール・フサインとの演奏 続き。)
・ザキール・フサインの言葉
シヴジーとの関係は、少年時代からのものです。11歳か12歳の頃だったと思います。以来、シヴジーの庇護のもと、タブラの教育を受けています。「タブラの教育を受けている」と何故言うかといいますと、シヴジーと演奏しますと、タブラは伴奏者としてどう演奏すべきなのか、それが見えてくるんです。シヴジはそういうインド古典音楽の偉大なアーティストの1人です。
(04134~04256 ザキール・フサインとの演奏 続き。)
アンタルドゥワニ 後半
http://dharmadas.blog17.fc2.com/blog-entry-61.html
○ ムンバイに活路を求めて
○ 映画産業に出入りする様になった頃
○ ヒンディ映画界で 01
○ 結婚
○ ヒンディ映画界で 02
○ サントゥールの改良
○ 海外公演
○ 「シヴ・ハリ」の誕生
○ 西欧ポップ界との交流
○ サントゥール 楽器としての地位の確立
○ タブラとの相性
(白黒の写真。ムンバイの街の風景)
思い出が蘇ってきます。
1960年6月1日、ポケットには500ルピー、手にはサントゥールを抱え、私はムンバイに着きました。ムンバイ、(この喧騒ときたら)どこにもジャンムのような風景は見当たりません。見知らぬ人々、見知らぬ街角。まるで(私は)漆黒の中に飛び込んだ人のような有様でした。突然辿り着いたこの街。どうしよう。私の(持っている)サントゥールを知っている人は誰もいない。私は(その時、この街では)たった2人の人を知っていました。
私は2人の人を知っていました。音楽監督のバサント・デサイ氏と、オーガナイザーで「スール・スリンガール・サムサード」を主催する、ブリジ・ナーラーヤナ氏。ブリジ・ナーラーヤナ氏からは、コンサートは毎日は企画できないですよ、年に何回あるかどうか、と言われました。バサント・デサイ氏の所に行って相談しました。すると「あなたは、ミュージック・ダイレクション(音楽監督)をするのが良いですよ。なぜフィルムの中で演奏したいと思うんですか?」と言うのです。
ひとつ、容易に得ることのできた仕事がありました。それは、HMVレコードとの契約で、責任者の ジー・エヌ・ジョーシさんの所に会いに行くと「ちょうどあなたを探していたんですよ。あなたの演奏を録音したいんです。」と言われました。映画『ジャナク・ジャナク・パェル・バジェ』のバックグラウンド・ミュージックを演奏した時、映画のバックグラウンド・ミュージックだけを集めたレコードが出版されたんです。あの当時は普通は、バックグラウンド・ミュージックをレコードとしてリリースすることはなかったんですが、なぜか分かりません、映画監督のシャンタラムさんが私の演奏を気に入ってくださったのか、そのレコードの中では、私のソロ・パートも録音されたのです。ジョーシさんはそのレコードを聴いたのでしょう、そしてレコードを出したいと思ったのでしょう。このような経緯で、私の最初のレコード、EPレコードがリリースされました。その中で、私は、ラーガ・ティラクカモードと、ラーガ・キルワニを演奏したと思います。
(01415 EPレコード ジャケット)
シヴクマール・シャルマ演奏 ラーガ・キルワニ
あの頃、ジャヤデーヴァ氏が、『ハム・ドーノン』という映画の撮影をしていました。デーヴァナンダ・サーハブをヒーローにしたものです。歌は録音が終わり、バックグラウンド・ミュージックの録音が進行していました。そこに、ジャヤデーヴァ氏はサントゥールを起用してくれたのです。
(01445~01526 映画『ハム・ドーノン』。サントゥールによる心理模写)
??? 映画の中の台詞
□□ 01526~01603 映画産業に出入りする様になった頃
その頃から、私はあるものを感じる様になりました。それは『女神の力』です。最高位にあり、私を導いて下さっているのです。時に私に困難が降りかかると、例えば、夕食の為のお金に事欠くと、なぜだか、どうにか、あり得ない偶然からお金を得ることがありました。
その当時、ジャヤデーヴ氏はバルマン(サチン・デーヴァ・バルマン氏)氏のアシスタントもしていました。バルマン氏と出会うと、パンチャム氏(アール・ディー・バルマン氏の別名)にも会い、だんだんと映画産業とコンタクトができて、あちこち行ったり来たりして、演奏する様になりました。
□□ 01603~01714 ヒンディ映画界で 01
(映画音楽、レコードのジャケット:Kaajal, Tere Ghar ke Samne など)
サントゥールを演奏した映画音楽は、ヒットに継ぐヒットを重ね、ラジオからだろうが、パーンのお店だろうが、街角のどこに行ってもその歌が聴こえて来たものです。人々はだんだんサントゥールの音を認め始めたのです。
ある日、パンチャム氏が、私に無理難題を言ってしつこく迫りました。「シヴさん、映画の歌で、タブラを叩いてくれないか。」 私はタブラをたたくのは止めていました。彼はおじさんにねだったりして、私は、映画『ガイド』の中の歌では、仕方なくタブラをたたきました。
(01647~01714 映画『ガイド』 シヴジーがタブラをたたいたシーン。)
□□ 01714~01828 結婚
映画産業で地位を得て仕事をこなし始めると、収入も多くなり、賃貸マンションを探し始めました。バンドラ地区にマンションを購入すると、父をジャンムから呼ぼうという勇気が湧きました。
父はムンバイに来て、私の所にしばらく滞在しました。父は、自分の息子が、自分で望んでいた仕事をしているのを見て、ちょっと満足したようで、私のコンサートにも出席したりしました。そして、息子を結婚させようと決め、ジャンムに戻って相手を探し、私を呼びました。私は、マノラマと結婚し、彼女はムンバイにやって来ました。
(01757 シヴジーと妻マノラマ女史)
彼女にとっては、それまでの人生とは全く違う世界で生活が始まりました。(本来なら旦那さんは朝、)仕事に出かけるはずなのに、私は、クルターとパジャマ(インドの伝統服)を着て、家に居つづけています。時に、サントゥールを弾いているかと思えば、バルコニーでぼっと立っていたりします。彼女は自分がいったいどんな所に来てしまったのか、困惑してしまいました。私は、1週間も仕事に行かないことがあり、仕事に行ったかと思えば、朝まで帰ってこなかったりしました。その後、この(体験したことのない)生活スタイルを受け入れ適応していった、妻マノラマを、私は、本当に偉いと思っています。
□□ 01828~02007 ヒンディ映画界で 02
(Mere Hamdam Mere Dost など、たくさんのレコードのジャケット)
映画音楽は、インドに生きる人々の人生に大きく貢献しています。音楽監督、マダン・モーハン氏、ローシャン氏、カヤム・サーハブ、ナーヤル・サーハブ、ノーシャド・サーハブ、ラクシュミー・カント・ピヤレ・ラール氏、みなさんそれぞれが、(音楽作りに)自分のやり方があり、レベルがありました。あの頃が、映画音楽の黄金時代だったと思います。その黄金期に私も関わっておりました。
(01909 歌)
映画界には、様々な音楽監督がおりました。それらの人達と私は仕事をしていました。たいていの場合、「ここはこういうシーンでこういう歌だから、あなたの演奏をこのくらいカットしてください」と言われ、何度も何度も再録音するはめになり、とても苛立ち、不機嫌になりました。私はいったいここで何をしているんだ、自分の(与えられた)サントゥールという楽器のためにもっとすることがあるはずだと、自問する事もしばしばでした。(仕事先では)気分を害しながらも、ケースを開けて楽器を取り出して待っていると、夜中の12時、1時になったりします。だったら、この場の雰囲気から意識だけは抜け出して、このサントゥールのために何をしようか、何が不足して、どう直したら良いのか、どこを改良すべきか、音色・音質を磨くにはどうすればよいか、コンサートで演奏する前に、自分自身が満足できるところまでどう実験するか、これらのことに頭を常に働かせていました。
□□ 02004~02612 サントゥールの改良
when time stood still (時が停滞している時・・・)
Raga Kausi Kanhra
サントゥールは大昔「シャタ・タントラ・ヴィーナ(百弦琴)」と呼ばれていました。たくさんの弦が張られてありますね。
昔のカシミール地方のサントゥールには、全部で100弦ありました。この小さなブリッジ(弦を支える駒)ひとつづつに、4本づつ弦が張ってあり、25駒あったので、合計100弦でした。100本も弦があったにもかかわらず、音程は、わずかに1オクターブ分程しかなかったんです。カシミール・サントゥールでは、右側に鋼鉄製(スティール)の弦が張られ、左側には真鍮(黄銅)製の弦が張られていました。(弦の種類が違い、音色が違っていて)その結果、同じ音程を何ヶ所でも使っていたんです。で、現在のラーガの音楽を演奏するのに欠かせない、半音階がありませんでした。
(02043 カシミールのサントゥール 写真)
私は、両サイドとも、スティール弦を張ることにしました。こちら側(右側)を全音階でチューニングします。「レ」のフラット(半音下)を反対側にチューニングします。全音を右側、フラットやシャープを左側にチューニングすると、その結果、全ての音を演奏することが可能になります。
(02140 半音階づつ(クロマティック)演奏してみましょう。)
これで(中心となるオクターブの)全ての音を演奏することが可能になりました。この下のオクターブ(マンドラ・サプタク)は、弦を2本にしました。それ以外は、3本づつ弦を張っています。下のオクターブ(マンドラ・サプタク)は(音が大きいので)弦を3本張る必要はないんです、2本で充分な音が得られます。高音域では、最高域のオクターブ(アティ・タール・サプタク)の「サ」は、ここに張ってあります。
これで、どんなラーガの音も、サントゥールから得ることができます。今、ラーガ・カマージを演奏します。次に、ラーガ・ピールーを演奏するとすると「ガ」はフラット音ですね。次に、ラーガ・トーリーを演奏することもできます。
これで、全てのラーガを演奏することが可能になりました。ラーガ・マーラーを演奏するなら、中心のラーガあり、そこから、様々なラーガを展開することができます。
そしてここで、私が、もうひと工夫したことがあります。中心となるラーガの音階を、右側に合わせるんです。そうすると、弦を擦る(スライド:ガシート)ことによって、アーラープの中で、「ミーンド(ミール)」を演奏することができます。
(02328 ガシート奏法の実例)
インド古典音楽の楽器には「チカリ」というたいへん重要な要素があります。中央の「サ」がここだとすると、1オクターブ上の「サ」はここですね。(カシミール・サントゥールには「チカリ」がありませんでしたので)私は「チカリ」を、この場所に定めました。そして、弦が4本ありますから、その特性を生かして、(4本のうち)2本を「サ」に、1本を「(下の)ガ」に、1本を「(下の)パ」に、ラーガにしたがって調弦します。一度の打弦で4本の弦が一度にハーモニー(ヨーロッパ音楽で言う「コード」)を奏でます。
最も苦心したのは、サントゥールはスタッカート音(断音)の楽器なので、このカラム(木製の
打弦バチ)で弦を叩くことはできます。もし、ある音に留まって継続的に出したい場合、
「ガー・マパマー・ガー・レサー・ニ・パー・ニー・ガマ・ガー」(02457)
歌ったように、この楽器で演奏したいですね。この奏法を、私のテクニックで「ミーンド」と呼んでいます。
「サー二・ダーパ・マーー・---・マーダ・パーー・パーガ・レーレ#・ガーー」(02519)
ライト・ミュージックの場合は、
「カルナー・パレー・モヘー・テーレー・ビナー・サンワリヤー」(02535)
この奏法を確立した後、私のスタイルの中で、技法として「サントゥールが歌いだした」と言えるでしょう。
□□ 02612~02932 海外公演
1968年、私は初めて、海外公演に出かけました。Pt.ラヴィシャンカル・ジーが「フェスティバル・オフ・インディア」というプログラムをアメリカで開催しました。ラヴィシャンカル氏の他、アリ・アクバル・カーン氏、ウスタード・アララッカ氏、ラクシュミー・シャンカル氏も参加されました。ロサンジェルスでは、サントゥールのワークショップもしました。アメリカやカナダで人々はサントゥールの音を聴き、多くの賞賛をいただきました。
特筆すべきは、シカゴで、ウスタード・アララッカ氏が私と一緒に演奏されました。私はラーガ・シャンカラを演奏しました。音楽ホールは満席で、演奏が終わっても拍手は鳴り止まず「ワンス・モーア」コールが続きました。控室に戻って、アララッカ氏に「今日のプログラムは大成功でしたね。」と言うと、「もちろん、成功するに決まってるさ、今日の舞台はジャンム出身2人組みだろが・・・。」あの時の(アララッカ氏の軽妙さを)今でも覚えています。お互いどれだけ愛情を持って演奏にのぞんだことか。
(02726~2740 シヴジーの演奏)
ラーガ
1969年、たいへん意義深い音楽祭が、イランのシーラーズの街で開催されました。サントゥールに似ている楽器と演奏者を、世界中から集めたのです。イランにも「サントゥール」があり、弦は72本です。100本ないんです。中国では「ヤンチン」と呼ばれ、50本前後の弦があります。ギリシアでは「サントゥーリー」と呼ばれる楽器があり、イラクにもあります。アメリカでは「ハンマー・ダルシマー」という楽器があり100本に少し満たない数の弦があります。ドイツには「ハック・ブレット」があり、弦は100本以上あります。ハンガリーからは「シンバロン」がやってきました。世界中から集まった奏者が、プログラムの中で演奏し、その後、演奏者が集まって討論会もありました。私はインド音楽のラーガやターラについて話しをしました。それぞれの国の人はそれぞれの音楽について語りました。お互いの楽器を弾いてみることもしました。特に私の演奏技法である「ミーンド・ガシート奏法」には、各国の演奏家はびっくり仰天したようです。サントゥールは「カラム(ストライカー:打弦バチ)」で弦をたたいて出る「スタッカート音」の楽器ですが、(シヴジーの奏法で、音を持続させることができるとは)誰も考えた事がなかったのです。世界中の高名な演奏家から称賛の言葉をいただいたのは、私にとって非常に刺激的で大きな励ましになりました。
□□ 02932~03105 「シヴ・ハリ」の誕生
・Pt.ハリプラサード・チャウラシアのお話
スェーデンのストックフォルムで私たちのコンサートがあった時、非常に成功しました。そして録音しないかという話になりました。
私たちはそれ以前にも、アルバムを出したことがあります。HMVから「コール・オフ・ザ・バレー」というタイトルでリリースされました。もう40年くらい昔のことだと思います。あのアルバムは世界中でヒットして、私たちの名前が知られる様になりました。あのアルバムのおかげで、私もシヴジーも人々に名前を認められる様になりましたし、(世界の人々に)インド古典音楽界にもアーティストがいるという認知をもらいました。それほど有名になったんです。
スェーデンで録音している時、プロデューサーが「パンディット・シヴ・クマール・シャルマー、パンディット・ハリ・プラサード・チャウラシアー、では名前が長すぎるね、ジャケット全部名前だらけになっちゃうな。」と言うのです。で、私は言ってることをすぐに理解しました。と、2人の頭だけの名前にしようと。彼の両親は彼の姿を見て「シヴァ(神)」と名づけたでしょう、ヒマラヤ山中でいつも練習に励んでいましたからね。私の両親も、私の名前「ハリ(ヴィシュヌ神の化身であるクリシュナ神)」を、私がいつも、心の中ではいつもブリンダーバンに住んでいますからね、そう名付けたんですよ。(こうして、「シヴ・ハリ」というコンビ名が誕生したんです)
(03038 Call of the Valley より)
□□ 03105~03217 西欧ポップ界との交流
1974年、とても大きな音楽祭がアメリカでありました。再び、Pt.ラヴィシャンカル氏が、今までにはない発想でプログラムを組みました。その中で、インド古典音楽界から、ラヴィシャンカル氏、ハリプラサード・チャウラシア氏、ウスタード・スルターンカーン氏、ウスタード・アララッカ・カーン氏、それに私が参加し、ポップ界からは、ビートルズのジョージ・ハリスン氏、キーボード・プレーヤーのビリ・プリストン氏、有名なフルート・プレーヤーのトム・スコット氏が参加し、両者が共同して創造された音楽のなかで、サントゥールは、新しい次元、新しい展開を獲得しました。あのコンサートは録音もされ、幾つかのコンポジションは、ジョージ・ハリスンのアルバム「ダーク・ホース」のなかで、「Pt.ラヴィシャンカル氏とその友人達」として残っています。
(03207 「ダーク・ホース」から)
□□ 03217~03605 サントゥール 楽器としての地位の確立
1970年代、私は数多くのドゥエット(ジュガルバンディ)を演奏しました。特に、高名なバイオリン奏者ヴィー・ジー・ジョーグ氏、フルート奏者ハリプラサード・チャウラシア氏、ギター奏者ブリジ・ブーシャン・カブラ氏と多くの演奏をしました。
しかし、ある一部の人達、特にインドラジオ局の音楽監督さん達が、ちょっと馬鹿にした発言をしたんです(今でも、いったい誰が言ったのか、想像するんですが)。「サントゥールはね、良いんだけどね、もし他のメインの楽器と一緒に演奏すればね、聴くに耐えうるんだけどね。けど、独奏楽器としては、1時間半の時間、もてあましちゃうよね。例えば全国放送のプログラムなんかではね。・・・」
それを聴いて私は友人達と相談し、「私はこれから、1人で戦います。数年間は、ジュガルバンディはしません。」と宣言しました。いろいろな人の忠告や協議を受けた後、私は単独で行動することが正しいと確信しました。一般の人々がサントゥールという楽器を単独で聴いて楽しんでもらえるにはどうすればいいかを、私の目標に定めました。(サントゥールが自立した楽器となる)時期が熟してきたんです。人々は(そんな私の単独演奏を)聴いて、称讃しました。
(03323~03605 第54回 2006年 サワイ・ガンダルヴァ音楽祭
ラーガ
タブラ
タンプーラ
□□ 03605~04256 タブラとの相性
タブラの伴奏は、サントゥール音楽にとって非常に、特別に意味のある要素であることを強調したいと思います。サントゥール音楽には、複雑に込み入ったリズム技法(ラエカリ)があり、力量が試されるのです。私は個人的にも、ラエカリに没入するのが大好きで、音の要素とリズムの要素、両方のバランスを保ちながらも、音の要素を犠牲にすることなく、可能な限り複雑に交錯した「ラエカリ」に挑戦しようと、いつも思っています。そのためには、特に能力のあるタブラ奏者の伴奏が必要なのです。幸運なことに、私は、様々な(流派の)タブラ奏者に伴奏していただく機会を得ました。当時(の最高の奏者である)、Pt.アノケラール・ミシュラ氏、Pt.キシャン・マハラージ氏、Pt.シャムタ・プラサード氏、ウスタード・アララッカカーン氏、ウスタード・カラマトゥッラカーン氏、皆さんと私は競演したのです。その次の世代のタブラ奏者では、例えば、ザキール・フサイン氏、アニンド・チャタルジー氏、クマール・ボース氏、ラティ・ファヤマットカーン氏、故シャファ・アヤマットカーン氏と一緒に、何度も何度も、インド中、世界中で演奏しました。お互いに申し分のない了解があり、伴奏者として素晴らしい関係を持っています。
(03636 ヴォーカリストのタブラ伴奏をするシヴジー。昔の録音風景のスナップ写真。なんと、ヴォーカル、タブラ、サーランギ、タンプーラ合わせて1個のマイクが使われていたようです。)
(03649 若かりし頃のシヴジー。タブラはアノケラールミシュラ氏)
ザキール・フサイン氏とは、個人的にも、ウスタード・アララッカ・カーン氏はジャンム出身でしたので家族的な付き合いでもありますし、お互いに人間として、たいへん深く理解しあっていて、愛情を持って付き合っています。音楽もその延長線上にあります。
(03751~03938 ザキール・フサインとの演奏)
ラーガ
タンプーラ
その結果、観衆、特に海外で私たちの演奏を聴いた観衆から、いったいどうやってお互い理解しあうのか、楽譜もなく、目の前に音符があるのでなく、計画なく即興で演奏が進んでいる、タブラ奏者は、しかし、全てを見通して伴奏している、まるで、2つの異なる楽器なのに、ひとつの生命体であるかのようであるのを聴いて、吃驚するという反応をもらいます。
(03958~04105 ザキール・フサインとの演奏 続き。)
・ザキール・フサインの言葉
シヴジーとの関係は、少年時代からのものです。11歳か12歳の頃だったと思います。以来、シヴジーの庇護のもと、タブラの教育を受けています。「タブラの教育を受けている」と何故言うかといいますと、シヴジーと演奏しますと、タブラは伴奏者としてどう演奏すべきなのか、それが見えてくるんです。シヴジはそういうインド古典音楽の偉大なアーティストの1人です。
(04134~04256 ザキール・フサインとの演奏 続き。)
アンタルドゥワニ 後半
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